2011年2月8日火曜日

またまた柳川抄の復習・・・

またまた柳川抄の復習・・・
コムラードのHPより。


「我が生い立ちの記」  (朗読) 初版
“古い時代の白壁が今も懐かしい影をうつす”

 〔1〕流れ

 私の郷里、柳川は水郷である。
自然の風物はいかにも南国的であるが、柳川を貫通する数知れぬ
掘割のにほいには、日に月にすたれゆく古い時代の白壁が、今も
なお懐かしい影をうつす。

わが町に来る旅人は、その周囲の平野に、遠く近く、銀の光を
はなつ多くの川を見るであろう。
そうして歩むにつれ、その水面に菱の葉、蓮、真菰、河骨-さまざ
まの浮藻の強烈な更紗もようを見いだすであろう。

水は清らかに流れて、すたれ果てたノスカイ屋(遊女屋)の厨
の下を流れ、洗濯女の晒布(さらし)にそそぎ、水門にせわれて
は黒いダリアの花に嘆き、酒造る水となり、汲水湯に立つ湯上り
の娘の唇を嗽(そそ)ぎ、そして夜は観音講の堤燈の灯をちらつ
かせながら、海近き沖の端の塩川におちてゆく。
静かな流れは、こうして昔のままの白壁に寂しく光り、芝居見物
の水路となり、舵を奔らせ、変化多き少年の秘密を育む。

水郷、柳川はささながら水に浮いた“灰色の柩”である。

柳川は太古の昔、潮が満ち引きする潟だったと言われています。
筑後川や矢部川などが運び込む土砂が、
有明海に広大な干潟をつくり、その干潟に堤防を築き、干拓
開墾してできた街です。
有明海は干満の差が激しい海で、その差は最大6メートルにもなり、
海抜0メートルが続く土地の大部分が満潮時は海面下になります。
古くから水不足に悩まされてき
た人々は、矢部川やその支流に井堰をつくり、
掘割を通して水を引き込み、農業用水
や生活用水を確保してきました。
柳川市域での掘割の総延長は実に470キロ。
しだれ柳が緑の影を落とし、水面には
花菖蒲が咲き乱れる掘割(クリーク)。 
そして城内の静かな家並みを下るドンコ船。
今でこそ年間約100万の人々が訪れる観光名所として
脚光を浴びる掘割ですが、こう
した生活の歴史を育んできた用水でもあるのです。
ンコ船にて掘割を下る (70分大人¥1,500)
掘割に沿って遊歩道・白秋道路がある
往路は遊歩道を歩き 復路はドンコ船がお勧め


〔2〕おそれ

 “あの眼の光るは、星か蛍か鵜の鳥か
  蛍ならば お手にとろ 
  お星さまなら拝みましょ…”

幼い時、私はよくこういう子守歌をきかされた。
そして、恐ろしい夜におびえながら、乳母の背から、
首の赤い蛍を掴んだ時、どんなに好奇の心に顫えたであろう。

少年になっても私は夜が怖かった。
何故にこんな明るい昼のあとから“夜”という厭な恐ろしいもの
が来るのか? 私は乳母の背に抱きついて慓るえたものだ。
真夜中の時計の音は、また妄想に痺れた。
トンカ・ジョーンの小さな頭脳に生臟(いきぎも)とりの血のつ
いた足音を刻みつけながら、時々深い奈落に引き込むようにボー
ンと時をうつ…
 

 “あの眼の光るは、星か蛍か鵜の鳥か
  蛍ならば お手にとろ 
  お星さまなら拝みましょ…”


関ヶ原の戦い以降柳川を治めた田中吉政
は掘割の整備・天守閣の築造・道路の新
設・整備や有明海岸の埋め立てなど土木
事業に数多くの業績を残しました。


〔3〕水落ち

 九月…祇園会が終わり秋もふけて、線香を乾かす家、からし油
をしぼる店、ローソクを造る娘、提燈の絵をかく義太夫の師匠---
すべてがしんみりとした物の哀れを知る十月の末には、まず秋祭
りの準備としで柳川の掘割は、水を干され、魚は掬われ、なまぐ
さい水草もどぶ泥もきれいに浚い尽くされる。

 この“水落ち”の楽しさは町の子供の何にも代え難い季節の華
である。そうしてこのひと騒ぎのあとから、また久しぶりに奇麗
な水は廃市に注入り、楽しい祭りの前ぶれが奇妙な道化師の姿で
ラッパをならし、拍子木を打ち、町から町へとめぐり歩く。

 祭りのあとの寂しさは、また格別である。
野は火のような櫨の紅葉に百舌がただ啼きしきるばかり、何処か
らとなく漂流うて来た傀儡師の背で生白い人形の首が、眉を振る
物凄さも何時人々の記憶からかき消えて“灰色の柩”柳川に寂し
い、寂しい冬が来る。


現在の“水落ち”

TAXIの運転手さんによると現在の水落ちは2月に行われ 
濁った水は有明海に流される
市民が掃除をするわけではなくもっぱらバキュームに
頼っていると言う 
その期間は観光はクローズし 川開きは3月1日
その為に冬から春にかけては掘割の水は綺麗だそうだ


明治18年、柳川・沖端に誕生した北原白秋の生家は、
代々屋号を「油屋」とか「古問屋」と称する海産物問屋
でしたが、白秋の父の代になると、柳川地方でも一、二を
あらそう酒造業を営むようになりました。当時の北
原家屋敷は、一町三反という広大な敷地を有し、
母屋との間には、流れのきれいな掘割りがありました。
しかしそんな生家も、明治34年の沖端大火災で大半を焼失。 
母屋と一つの穀倉だけが難を逃れ、昭和44年11月に
復元され、平成元年2月には母屋に附属していた
隠居部屋も復元されました。 現在、この生家内には白秋の
著書や遺品、さらには柳川の風物にゆかりの深い
資料が数多く展示されています。この生家は、
記念的な建物であると同時に、柳川地方の明治時代の
商家の形態を知る上で、重要な建物といえます。
(文章引用:北原白秋記念館)

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