昭和30年代、我が母校でも、200人以上の部員がおられ、
大阪のフェスティバルホールがのりきらなかったそうです。
また、客席もいっぱいで立ち見が出て、
フェスティバルホール近辺では、警備が出るほどだったと聞きます。
まるで、今のアイドルのコンサート並みだと思いますね。
また、先日お話した全日本学生マンドリン連盟の一団体である
大阪学生マンドリン連盟、通称阪マンのコンサートは
大阪厚生年金会館の大ホールで行われており、
私が4回生の時には、中ホールで松本典子という
アイドルがコンサートをしていました。
後に確か元ヤクルトの選手の奥さんになったと思います。
会館の前の公園は、我々学生と、はちまきをしたファンで
ごったがえしていました。
賛助の金管の方々が練習をしている横で、ぶらぶらしながら、
松本典子ファンクラブを観察していたことを思い出します。
「松本典子より大きな舞台で演奏するんだなあ」と思わずつぶやいて、
同級生に怒られたのを覚えています。
「そんなもの当たり前やないか!」と。
その同級生は菊池桃子の熱烈なファンでしたが、
もし菊池桃子が当日 中ホールでコンサートをしていたら、
彼は怒り狂ったと思うのですが。
その時は、ペルシャの市場を8分程指揮し、
一緒に組んだ関大が鈴木静一氏の「火の山」を27分演奏しました。
私の好きな曲ですが、長い曲なので、たかマンでは無理かな・・・
確か、総勢90名くらいだったように思います。
大編成ですね。
おかげで、演奏できない私は楽屋のテレビでナイター観戦してました。
余りにも長い演奏なので。。。
そんなことは今まで誰にも言ってませんが。
まあ、いろいろな大学と組んで演奏するのも
違う空気が吸えて良いものでした。
大学毎の違ったカラーの選曲を楽しんだり。。。
合宿練習では、合間に花いちもんめ等をしたのを覚えています。
男子校(電通大・大工大)・女子大(梅花・樟蔭)と組むと
違った交流をしたがる傾向がありましたので。
これも阪マンの良き思い出です???
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