2011年3月9日水曜日

柳川抄の解説!

柳川抄の解説も入れるなら、下記のようになるかな。


音楽詩「柳川抄」 <解説と朗読>  
 ~北原白秋の生い立ちの記による~ 作曲 鈴木静一

<<解説>>
大正から昭和にかけて活躍した北原白秋の詩は、
思春から青春に移ろうとする頃の私を異常に刺激し、
音楽と詩の両道の選択に迷わされた想い出がある。

1968年、九州大学マンドリンクラブに招かれ福岡を訪れた際、
白秋の故郷 柳川に遊び、今日もなお、白秋の頃の面影を残す晩秋の柳川の寂しさと
深い詩情に溢れる流れに、街に、また子供たちに言いしれぬ懐しさを抱き、
この曲を書き上げたのである。
さらに白秋の「我が生いたちの記」による
詩の朗読を音楽の一部として組み入れたものである。
「昭和46年(1971年)6月30日発行 GMO機関紙「フレット」第14巻・第2号より」


<<朗読>>
「我が生い立ちの記」 
  “古い時代の白壁が今も懐かしい影をうつす”


【1楽章】流れ

私の郷里、柳川は水郷である。
自然の風物はいかにも南国的であるが、柳川を貫通する数知れぬ
掘割のにおいには、日に日にすたれゆく古い時代の白壁が、今も
なお懐かしい影をうつす。

わが町に来る旅人は、その周囲の平野に、遠く近くろう銀の光を
放つ多くの川を見るであろう。
歩むにつれ、その水面(みなも)に菱(ひし)の葉、蓮(はちす)、真菰(まこも)、河骨(こうほね)、
さまざまの浮藻(うきも)の強烈な更紗(さらさ)もようを見いだすであろう。

水は清らかに流れて、すたれ果てたノスカイ屋(遊女屋)の厨(くりや)
の下を流れ、洗濯女の晒布(さらし)にそそぎ、水門にせわれて
は黒いダリアの花に嘆き、酒造る水となり、
そして夜は観音講の堤燈の灯(あかり)をちらつ
かせながら、海近き沖の端(はた)の塩川におちてゆく。

水郷、柳川はささながら水に浮いた“灰色の柩(ひつぎ)”である。


【2楽章】おそれ

 “あの眼の光るは、星か蛍か鵜(う)の鳥か
  蛍ならば お手にとろ 
  お星さまなら拝みましょ…”

幼い時、私はよくこういう子守歌をきかされた。
そして、恐ろしい夜におびえながら、乳母の背から、
首の赤い蛍を掴んだ時、どんなに好奇の心におびえたであろう。

少年になっても私は夜が怖かった。
何故にこんな明るい昼のあとから“夜”といういやな恐ろしいもの
が来るのか? 私は乳母の背に抱きついてふるえたものだ。
真夜中の時計の音は、また妄想に痺れた。
トンカ・ジョーン(男の子)の小さな頭脳に生臟(いきぎも)とりの血のつ
いた足音を刻みつけながら、時々深い奈落に引き込むようにボーンと時をうつ…
 

 “あの眼の光るは、星か蛍か鵜の鳥か
  蛍ならば お手にとろ 
  お星さまなら拝みましょ…”


【3楽章】水落ち

九月十日、祇園会(ぎおんえ)が終わり秋もふけて、線香を乾かす家、からし油
をしぼる店、ローソクを造る娘、提燈の絵をかく義太夫の師匠---
すべてがしんみりとした物の哀れを知る十月の末には、まず秋祭
の準備として柳川の掘割は、水を干され、魚は掬(すく)われ、なまぐさい
水草もどぶ泥もきれいにさらい尽くされる。

この“水落ち”の楽しさは町の子供の何にも代え難い季節の華
である。そうしてこのひと騒ぎのあとから、また久しぶりに奇麗
な水は廃れ(すたれ)ゆく町に注ぎ入り、楽しい祭の前ぶれが奇妙な道化師の姿で
笛をならし、拍子木を打ち、町から町へとめぐり歩く。

祭のあとの寂しさは、また格別である。
野は火のような櫨(はぜ)の紅葉に百舌がただ鳴きしきるばかり、何処か
らとなく漂流うて来た傀儡師(くぐつまわし:人形師)の背で生白い人形の首が、眉を振る
物凄さもいつか人々からかき消えて“灰色の柩”
柳川に寂しい、寂しい冬が来る。

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