2010年6月20日日曜日

細川ガラシャの解説2




写真は尼崎 元浜緑地のアジサイ。ちょうど催しをやっており、苗を只で頂く。

細川ガラシャ玉子夫人(1563~1600)

1563年(永禄6年)越前一乗谷(福井県)にて明智光秀の三女として
生まれ、玉と名づけられた。
安土桃山時代の代表的な女性キリシタン。
信仰及び婦道の精華と謳われる。
1578年、織田信長の媒酌で細川藤孝の長男細川忠興(ただおき)と結婚した。
共に15歳であった。
その後しばらく宮津の居城で過ごした。

1582年(天正10年)父明智光秀が本能寺で織田信長を討った。
この本能寺の変後、反逆者の娘として死を免れないかに思われたが
夫と別れて丹後の味土野の山中に幽閉されて過ごし、
その2カ年の間に人生のはかなさや謎について思いをめぐらした。
その後、羽柴(豊臣)秀吉により大阪の細川邸で忠興と同居することを許された。
秀吉から城に招かれた時には短刀を胸に隠して登城し酌をする時に
胸からポロリと落として秀吉を驚かしたという逸話が示すように、
極めて気性の激しい女性であった。
高山右近が忠興に聞かせたキリシタンの教義を夫から伝え聞く内に関心が深まり、
1587年に忠興が九州の役に出陣していた時、侍女の小侍従らと共にひそかに
近くの大阪の教会を訪ね、セスペデス神父の命を受けた日本人修道士ヴィンセンテから
教理を学んでいたが、その途中細川邸に連れもどされた。
それ以後は、小侍従が教会で教わって来た教理を伝え聞くという方法が取られ、
小侍従から受洗した。

ガラシアは彼女の(領)国(丹波)にひとつの立派な教会を建て、
(住民の)大改宗を企てる決心をしていた。
キリシタンになることに決めて後の彼女の変わり方はきわめて顕著で
当初はたびたび鬱病に悩まされ、時には一日中室内に閉じ籠って外出せず、
自分の子供の顔さえ見ようとせぬことさえあったが、今では(顔に)喜びを湛え、
家人に対しても快活さを示した。
怒りやすかったのが忍耐強くなり、かつ人格者となり、気位が高かったのが
謙遜で温順となって、彼女の側近たちも、そのような異常な変貌に接して驚くほどであった。
(フロイス「日本史」5-236)

それからガラシアは「イミタツィオ・クリスティ(キリストに倣いて)」を愛読し、
ローマ字で司教たちと通信しつつ信仰を深め、徳操を磨いた。
1600年(慶長5年)家康に味方して上杉征伐に出陣した忠興の留守中、
大坂城の石田三成によって人質になる事を命ぜられたが、
かねてより覚悟もし打ち合わせてあった通り、屋敷に火を放ち、
家老の小笠原小斎の槍を受けて天晴れ殉教した。
忠興はガラシアをこよなく愛していたのでイエズス会の神父に依頼して、
盛大な葬儀ミサを営み、毎年年忌ミサを行なった。

中津の城主となってからも、城の隣りに長福寺という大きな聖堂を建て、
美しいマリア観音像と共に千利休から遺贈された四基の織部型キリシタン灯籠を祭って、
教会を手厚く保護した。
そのために、「耶蘇教の勢威豊前地方に蔓延し、
中津近郷町村の信奉する者一時萬を以て算し」たと記録されている。
(黒屋直房「中津藩史」図書刊行会600P)

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