明日の柳川抄の練習では、ナレーターの方に入って頂きます。
ナレーションは、こんな感じです。
原題:「我が生い立ちの記」
“古い時代の白壁が
今も懐かしい影をうつす”
〔1〕流れ
私の郷里、柳川は水郷である。
自然の風物はいかにも南国的であるが、柳川を貫通する数知れぬ
掘割のにほいには、日に月にすたれゆく古い時代の白壁が、今も
なお懐かしい影をうつす。
わが町に来る旅人は、その周囲の平野に、遠く近く、銀の光を
はなつ多くの川を見るであろう。
そうして歩むにつれ、その水面に菱の葉、蓮、真菰、河骨-さまざ
まの浮藻の強烈な更紗もようを見いだすであろう。
水は清らかに流れて、すたれ果てたノスカイ屋(遊女屋)の厨
の下を流れ、洗濯女の晒布(さらし)にそそぎ、水門にせわれて
は黒いダリアの花に嘆き、酒造る水となり、汲水湯に立つ湯上り
の娘の唇を嗽(そそ)ぎ、そして夜は観音講の堤燈の灯をちらつ
かせながら、海近き沖の端の塩川におちてゆく。
静かな流れは、こうして昔のままの白壁に寂しく光り、芝居見物
の水路となり、舵を奔らせ、変化多き少年の秘密を育む。
水郷、柳川はささながら水に浮いた“灰色の柩”である。
〔2〕おそれ
“あの眼の光るは、星か蛍か鵜の鳥か
蛍ならば お手にとろ
お星さまなら拝みましょ…”
幼い時、私はよくこういう子守歌をきかされた。
そして、恐ろしい夜におびえながら、乳母の背から、
首の赤い蛍を掴んだ時、どんなに好奇の心に顫えたであろう。
少年になっても私は夜が怖かった。
何故にこんな明るい昼のあとから“夜”という厭な恐ろしいもの
が来るのか? 私は乳母の背に抱きついて慓るえたものだ。
真夜中の時計の音は、また妄想に痺れた。
トンカ・ジョーンの小さな頭脳に生臟(いきぎも)とりの血のつ
いた足音を刻みつけながら、時々深い奈落に引き込むようにボー
ンと時をうつ…
“あの眼の光るは、星か蛍か鵜の鳥か
蛍ならば お手にとろ
お星さまなら拝みましょ…”
〔3〕水落ち
九月…祇園会が終わり秋もふけて、線香を乾かす家、からし油
をしぼる店、ローソクを造る娘、提燈の絵をかく義太夫の師匠---
すべてがしんみりとした物の哀れを知る十月の末には、まず秋祭
りの準備としで柳川の掘割は、水を干され、魚は掬われ、なまぐ
さい水草もどぶ泥もきれいに浚い尽くされる。
この“水落ち”の楽しさは町の子供の何にも代え難い季節の華
である。そうしてこのひと騒ぎのあとから、また久しぶりに奇麗
な水は廃市に注入り、楽しい祭りの前ぶれが奇妙な道化師の姿で
ラッパをならし、拍子木を打ち、町から町へとめぐり歩く。
祭りのあとの寂しさは、また格別である。
野は火のような櫨の紅葉に百舌がただ啼きしきるばかり、何処か
らとなく漂流うて来た傀儡師の背で生白い人形の首が、眉を振る
物凄さも何時人々の記憶からかき消えて“灰色の柩”柳川に寂し
い、寂しい冬が来る。
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